■ソース
http://www.sankeibiz.jp/econome/news/100206/ecc1002060502006-n1.htm■概略
88年夏、地中海の高級リゾート地サルディニアでは12メートル級ヨットの世界選手権が
行われていた。取材に集まっていた記者団に対し、日本外洋帆走協会(NORC)から
次回アメリカスカップ(ア杯)への挑戦が発表された。
山崎達光をチェアマンとするシンジケートが結成され、
「ニッポンチャレンジ・アメリカ杯1992」と名付けられた。挑戦コンセプトは「日本人は
エコノミックアニマルではない。夢と勇気を持った血のかよった人間なのだ」というもの。
バブル景気の最中、世界の日本人観を変えることだった。そのために巨費と膨大な
エネルギーを費やし、目指すものは100ギニ−のトロフィーただひとつ。
挑戦表明はしたものの、果たして資金は集まるのだろうか。
山崎は後になって、「ア杯挑戦はジェットコースターに乗っているようだった。至福の時と、
苦しみの時の連続だった」と述懐している。
山崎は、船外機や舟艇の製造で日本のマリン業界をリードしていたヤマハ発動機の社長、
江口秀人を訪ね協力を要請した。江口もまた“熱”の人だった。2人の手は固く結ばれた。
ヱスビー食品とヤマハ発動機からの出資をシードマネーとして活動は軌道に乗った。
1億円×30社。1業種1社。30億円の資金集めが開始された。
「アメリカスカップ?」「ゴルフの大会?」…
苦しい時が続いたが、徐々に賛同する企業は増えていった。自動車、保険、証券、出版、
小売り、化学、鉄道、海運、航空、食品、飲料など。スポンサー30社はまさに同じ夢を
共有する異業種集団であり、強力なニッポンチャレンジの応援団と化した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
2010.2.6付けだったので、
おいおい、どこの企業が?1億を30社も?・・・・と驚いたが、
いやいや、良く読むとバブル期の話でした。
92年といえば、バブル崩壊の頃。
確かにあの頃は、色々な所で金が飛び交っていたなあ。
え、そんなものに、そんなに金出すわけ???という位に。
狂っていましたね。
その全く逆の時代にある現在。
企業業績はどこも下降。
テレビ視聴率は落ち、広告予算は落ち、スポーツ予算も削られていく。
全体的には、とにかくマイナス・スパイラルの中。
しかし、誰もが負け組ではないです。
勝ち組もたくさんいます。
又、強い精神を持った人間もたくさんいます。
心折れずに挑戦している人もたくさんいます。
そういう所には、金も人も集まってくる。
時代を言い訳にしている人種とは、異なります。
さあ、挑戦して行きましょう。
posted by sports777 at 15:03|
Comment(0)
|
TrackBack(0)
|
スポーツNEWS
|
|